『ヒトの脳の中心部の原始的な部分はこの世界をざっくりふたつに分けます。
いいものとわるいものです。
ふたつ合わせると
ヒトにとってこの世界のすべてになります。』
これは
ここ数十年で科学が私達に教えてくれたことです
が
1200年前の空海はどうやらすでにこのことをわかっていました。

空海がそのことを表現したのが
立体曼荼羅(りったいまんだら)。
立体曼荼羅(りったいまんだら)
空海が悟った世界観を
仏像を使って空間で表現したものが
『立体曼荼羅(りったいまんだら)』と呼ばれ
東寺の講堂にあります。
これです。↓

俯瞰で見たらこんな感じ↓

わかりやすいと思うので端から順番に説明しますね。
両端にいるのは天部。
天部
天部とは
仏教を守ると決めたインドの神様。
立体曼荼羅では六体います。


各天部、細かい設定があり、
意味もいろいろあるのですが
今回、多すぎる情報はわかりにくくするだけです。
意味は単純に
『世界のはしっこにいる守護神』
と思ってください。
単純に世界の範囲の定義に使われています。
この範囲が世界全体を表現していると解釈できます。

天部がいる左右の世界のはしっこから内側に進むと
向かって左に
明王(みょうおう)↓

と
向かって右に
菩薩(ぼさつ)↓

がいます。

これが
冒頭の
科学が私達におしえてくれたこと。
私達の脳がこの世界を二つにわける
『いいものとわるいもの』
です。
明王(みょうおう)と菩薩(ぼさつ)

ヒトの脳の中心部がこの世界を二つに分けます。
『いいもの』と『わるいもの』
少し説明的にいうと
『ちかづきたいもの』と『とおざけたいもの』
でもいいかもしれません。
今風に言うと『かわいい』と『キモイ』
昔風に言うと『陰』と『陽』
かもしれません。
ぜーんぶ、脳がざっくりとこの世界をふたつにわけているものを言語化したものです。
あわせるとこの世界のすべてになります。
空海の場合は、
『菩薩』(『いいもの』)と『明王』(『わるいもの』)で
ヒトの脳が感じるこの世界のすべてを表現しました。
明王
明王は、
空海が初めて日本に輸入した『怒りの表情』が特徴の仏像。

なぜ輸入したのかというと
おそらく
空海が悟った世界観の表現に必要だったからです。
明王は『ヒトが畏れ(おそれ)をいだくもの』の表現。
つまり
『わるいもの』です。
(わかりやすいのが好きな私が簡単な『恐れ』ではなくわざわざ難しいほうの『畏れ』を使ったのは『畏れ』には『尊敬』が含まれているから。こっちのほうが明王には合うと思います。)
そして向かって右の菩薩
菩薩
菩薩は慈悲の象徴。

やさしいイメージで『安心をくれる存在』
これが『いいもの』
菩薩と明王で
『いいものとわるいもの』
ヒトにとってこの世界のすべて

これで
ヒトにとってこの世界のすべて
のはずですが
空海の立体曼荼羅では真ん中に何かいますね。
あれが如来
いいものとわるいものの正体
この世界のすべての正体です。
如来(にょらい)
如来は無表情。

怒っているわけでもなく微笑んでいるわけでもなく
約束を果たすためやるべきことをただ淡々とやる存在
ヒトの脳は世界を『いいもの』と『わるいもの』にわけますが
いいものもわるいものもその正体は如来だ
と
空海は言っています。

空海は自然と一体化することにより悟りにいたりましたが、
自然にたとえるとわかりやすいです。
ヒトは現代でも
予定がある日に天候が悪いと(いみじくも悪いという表現)
「日頃の行いが悪かったかな~」とか
あたかも自然が怒っているみたいな表現を使いますが
実際はそんなことはなく
自然はただ淡々と自然の法則(約束)に従ってやるべきことをやっているだけです。
ヒトが感じる悪天候の正体は、如来という自然がただ淡々と自分のやるべきことをやっている結果。
良くも悪くもなく、この世界に必要。
わるいものも必要。
明王を輸入した空海からのメッセージ。

如来は自然の象徴であると同時に
仏教修行者が目指す存在。
自然と一体化することにより悟った空海の答えでもあります。
『悟り』をもとめるものが目指すべきは
大日如来という自然との一体化。

如来群の真ん中にいるのは
大日如来。
多様化した仏教の中から空海が答えに選んだ密教。
その密教が
いちばんたいせつにしている対象です。
最後にその大日如来について考えてしめますね。
私はさっきざっくりと大日如来は『自然』だと言いました。
間違いではないと思いますが、
これちょっと
実は、間違えないためにざっくりぼんやりあいまいにした逃げです。
もっと具体的な解釈いろいろあります。
大日如来
大日如来はこの世界の根源であり、
どこにでもいて、なんにでもなれる存在。
これはハッキリしています。大日如来の定義です。
空海の立体曼荼羅では、いいものとわるいものの正体であり、各如来の正体でもあります。
大日如来素粒子説
このことから、
現代科学に照らし合わせて、
空海は、
現代科学の定義する物質の最小単位
『素粒子』
を大日如来にたとえたのではないか
という説がありますが、
たしかにそうかもしれないです。
でも個人的にはあまりしっくりきていません。
ホントにぼんやりですが、
素粒子も含みますが、素粒子の概念よりもっと深い何かな気がします。
多分、
現代科学がまだ到達していない何か。
この世界を構成する最小単位であると同時に最大単位でもある何かです。
そう思う理由は、
ガイドとして仏教のことあれこれ、どう説明するか考えていると、結局、最小であり最大にたどり着くことが多いから。
弱い理由です、、、。
でも今の私の正直な答えはこれです。素粒子説、なんかしっくりこない、なんか違う気がする です。
ちなみに
『最小にして最大』にたどり着いたときいつも
私の脳の中で
「はっ!ゼロは無限大にいちばん近い値。」
というシンジ君と初号機のシンクロ率がゼロなのに初号機が動き出したときの赤木リツコさんのセリフが思い浮かびます。

あいまいなこんな理由で『大日如来素粒子説』を否定して申し訳ない気持ちもありますが、
今回はあいまいでしめますね。あいまいでいいと思うんです。
もし、
科学が素粒子の中に別の宇宙の存在を発見したりしたら、最小であり無限大です。その時は私にもきっとしっくりきます。
素粒子の中に宇宙を想像してたらある映画を思い出しました。
「アキラってそんなんやったな」

「フィクションじゃん!」
という架空のお客様の声が聞こえてきたところで
では
あなたの観光がいいものになりますように
