仏教の知識がなくても京都観光は楽しめます。
が、
知っているとやはり観光がもう一段階面白いものになるのはたしかです。
京都の文化
というよりも
日本文化が
早くから仏教を取り込んで長くともに発展してきたので
観光で日本文化を楽しむのに役に立つからです。
がが、
2500年かけてたくさんの人が残してきた仏教の情報量は膨大です。本当の仏教を理解しようとするならこれらすべての情報を整理して理解する作業が必要になりますが観光を楽しみにいらっしゃったお客様に時短で、おそらく苦痛をともなうこの作業をやってもらうのは不可能でナンセンスですし、仏教を大切にし心の拠り所にしてその研究に一生を捧げている人たちにも失礼です。
なので
最初にお伝えしておきますが
私達バリアフリーツアー京都が時短でお伝えする仏教は仏教のほんのわずかなエッセンスでしかないです
単純化、切り取り、デフォルメであり
言ってしまえばフィクションです。
でも
役に立つフィクションだと信じています。
観光を楽しむのにも
この世界で生活するのにも
そして
私達バリアフリーツアー京都の最大のテーマ『呪い破壊(バリアフリー)』にも・・・
もちもの(ブッダ)
このツアーの出発時点でのもちものはひとつだけ
仏教を開いた『ブッダ』です。
あとは現地調達します。
ブッダをもってない人は今持ちましょう。
五分ください。
ブッダ

ブッダの特殊能力は
『とんでもない集中力』です。

2500年前
インドのブッダは
集中して瞑想することで
『悟り』に至りました。

『悟り』と言っても
一般的に使われる日本語の『悟り』とは意味が少しちがうので
翻訳します。
ブッダは
集中して瞑想することで
この世界の本当のしくみを理解しました。
ここまでが第一段階、『真理の発見』
この世界の本当のしくみが分かると
自分を苦しめている本当の原因がわかりました。
それを煩悩と名付けます。
これが第二段階、『煩悩の発見』
そしてブッダは
また集中して瞑想することにより
自分を不幸に導く『本能や本能レベルでしみついたもの』(煩悩)
をすべて書き換えました。(すべてです。完璧な悟り。これがブッダ)
これが第三段階、『煩悩の破壊』
この三段階の作業を経て到達した状態を仏教では『悟り』と呼びます。

それからブッダは
苦しんでいるすべての人の心を救おうと
『この世界の本当のしくみ
と
煩悩という呪いを書き換えるテクニック』を
人々に伝え始めます。
仏教のはじまりです

さて
ブッダはおもちになりましたでしょうか?
前置きが長いのは苦手なお客様もいらっしゃるでしょう。
実は私も苦手です。
早速ツアーを始めちゃいましょう。
あ!そうそうお客様
せっかくおもちになるのでしたら
ブッダはこのように右手にもってくださいね

仏教の設定では右手がブッダ。 左手があなたです。
仏教では『ここ一番』の時にこのように手を合わせますが

これはあなたとブッダの一体化を意味します
ブッダは一言で言えば、『こころが無敵の人』です。

『ココロムテキ』なブッダがいつもあなたの右手にいると考えると
それだけでも
なんとなく心強くなりませんか?
え
ならないですか、、、
では仏教とは関係なく
そんなお客様のために損得勘定の話。
私はガイドのくせに昔から人前で何かを発表するのがものすごく苦手で緊張してしまうタイプなんですが(あかんやん)
あるお坊さんから教えてもらってガイディングの前に手を合わせて指先の温度変化を意識するだけで
すこし緊張がましになるのを実感しています。
調べてみると
手を合わせることは緊張をほぐし集中力を高める効果があることは科学的な裏付けもあるそうです。
ここ一番で手を合わせる行為。
知っていて損はないですよ。どうですか〜お客様。
この簡単な技を教えてもらったちょうど同時期に偶然
演説が上手いことでも有名だったアメリカの大統領オバマさんが演説の前に手を合わせて心を落ち着けているようなシーンをホントに偶然目にしました。私は思わず叫びました。
「オバマもやってるやん!」
では
仏教知識のカベ時短破壊ツアーを始めます。
ツアー一発目の行程は東林院さんです。
東林院


訪れるのは六月中旬の東林院さん
※東林院さんは通常非公開ですが沙羅双樹の花が咲く頃に公開されます。
公開情報が欲しい人はボタンを押してください。
東林院へのアクセス
ちなみに
先ほどの緊張をほぐす技を教えてくれたのは東林院さんの住職さんです。
が、
それがツアー一発目の行程に東林院さんを選んだ理由ではないです
東林院さんはブッダに思いを馳せるのにピッタリの場所だからです。

六月中旬の東林院には沙羅双樹の花に見立てたナツツバキが咲きます。
沙羅双樹の花は仏教が大切にしている花のひとつ。
ブッダが沙羅双樹の下で亡くなったからです。

亡くなった原因は『おなかいた(腹痛)』だと言われています。
なんとも人間ぽいでしょう
これが仏教の特徴
仏教では創始者ブッダを神や超人やスーパースターではなく
あくまでひとりの人間として伝えます。
でも
そのあくまでひとりの人間に『集中して瞑想することによってこの世界の本当のしくみを理解』することは可能なんでしょうか?
仏教徒のかたはもちろんブッダは理解したと信じてらっしゃいますし、
うたぐり深く仏教徒ではない私もいろいろ知ったあとの今となってはそう信じています。
てゆーか
そう信じたほうがいろいろつじつまが合うし合理的にさえ思えるからです。無理に信じないほうが非合理的にさえ思えます。
私は理系出身。常に無意識に合理的根拠を求めます。
そんな私にブッダの伝説を信じさせた根拠のひとつは
『100年前の天才物理学者アインシュタイン』の存在。

ブッダとアインシュタインは共通点が多いです。
代表的なのは『過集中』
ブッダは旅の途中、ある家族の家に一晩泊めてもらいますが、集中して瞑想していて朝気が付くとその家は燃えて一家は全滅していてびっくり。

どうやら雷が落ちたそうです。
このようにひとつのことに集中したら命の危険にさらされても気がつかないような集中力の持ち主を『過集中』というそうです。アインシュタインも『過集中』だったそう。
ちなみに昭和の天才バッター長嶋茂雄さんの伝説のエピソードも『息子の一茂さんを一緒に球場に連れて行ったのに考え事をしていて球場に忘れて帰った』などなど天才の特徴『過集中』っぽいです。
ブッダとアインシュタイン
二人が発表した仮説は当時の常識とは違うものでしたが
のちに科学が追いついてきて定説になったことなどもふたりの共通点です。
物理学者にもいろんなタイプがありますが
ブッダと共通点の多いアインシュタインは
たった一人で脳内実験を繰り返して真理にたどり着けるタイプだったのは周知の事実です。
ブッダも同じタイプだと仮定したほうがもはやしっくりきませんか?
ブッダは集中して瞑想することでこの世の本当のしくみを発見したと言われ、
アインシュタインは脳内実験をくりかえして真理にたどりついたと言われますが
これ
言葉の表現が違うだけでやったことは同じじゃないですかね~。

アインシュタインは
「これからの未来、仏教だけが科学と共存できる」と言いましたが
もしかしたら
アインシュタインはブッダが自分と同じタイプの物理学者だとわかっていたのかもしれないですね。
さて
ここ東林院の沙羅双樹は
朝咲いて

夕方散ります。

この早いサイクルがわかりやすいので
ブッダが発見した真理
『諸行無常』
の説明をするのによく使われます。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
『諸行無常』とは一言でいうと
『永遠なんてない』
です。
朝咲いて夕方散る東林院さんの沙羅双樹のうつろいの早さは、
わかりやすく、
すべてがうつろうこの世界のしくみを教えてくれているというわけです。
でも
たとえ現代科学がそれを証明していても
永遠なんてない
って言葉を聞いて
『そんなさみしいこと言わないでよ』
『野暮だなぁ』
って
思ったお客様
一定数いますよね。
そうなんです。
ブッダの言葉はいつも
人によっては野暮に聞こえる言葉ばかりです。
たとえばブッダは
『この世は苦で満ちている』(一切皆苦)
とも言いましたが
これはたとえば
未来への夢であふれている子どもたちに向けて言ったとしたら野暮な言葉です。

そして
永遠なんてない(諸行無常)
は
たとえば
今まさに結婚式を挙げて永遠の愛を誓ったカップルに向けて言ったとしたら野暮な言葉です

ブッダの言葉は
誰に向かって言ってるのか
が分かると
しっくり来ます
じつは
ブッダの仏教はしあわせな人に向けてのものではありません。
その時代の主流の世界観や主義や宗教の中で生きづらさを感じている人に向けられています。
最初からそうでした。
ブッダは最初から
仏教をその国や世界のメインストリームの考え方にしようとしたのではなく
その国のメインストリームの考え方で生きづらい人のための受け皿としての位置づけで立ち上げました。
だから
その国のメインストリームの考え方でしあわせに生きられる人には
仏教はべつに必要なくて、野暮に聞こえるというメカニズムです。
具体的に言うと、
ブッダの時代のインドの普通の世界観、
ブラフマンという絶対的で永遠なる存在がいて
その存在が世界を司っているという世界観を人々は本気で信じてました。
そのブラフマンの支配下のもと、
生まれながらにして尊い生まれの人と、
いやしい生まれの人が決まっていて
これは永遠に絶対的に変わらない。
という設定になってました。
なぜ変わらないかというと
この世界を司っているブラフマンが永遠で絶対だからです。
おそらくブッダ自身もこの世界観をすりこまれて信じて生まれ育ったと思いますが、
この世界のホントのしくみを理解したブッダは
すりこまれた間違った世界観で苦しんでいる人のために
すりこまれた間違った世界観の大元である
絶対的で永遠なる存在のブラフマンを『諸行無常』で否定します。
『永遠なんてない。ブラフマンなんていない』って
『ブラフマンがいないということはブラフマンが司る人間の階級なんてものも存在しない』
『ということは生まれながらにしていやしい身分なんてものは存在しない』
『あなたはけしていやしい身分なんかじゃない』
これがブッダの煩悩破壊のテクニック。
真理を発見し
しみついた煩悩を書き換えます。
煩悩には
この
ブラフマン中心の世界観のような
『人を不幸に導く人の思い込み』の他に
『環境が変わって人を不幸に導くようになってしまった人の本能』も含まれます。
私たちバリアフリーツアー京都風にいえば
これらは呪い(のろい)のことです。
仏教の正体は呪い(のろい)破壊の技を伝えるものでした。
逆に
『人を幸福に導く思い込み』を『おまじない』と
呼びますが、
ブッダはブラフマンの存在がおまじないになってる人には
自分の考えやテクニックを押しつけなかった
ここが
私がブッダを人として信用できるところ
そして
センスがいいと言うかものすごくかしこいですよね〜。
ブッダは自分が発見した真理に基づく世界観が正しいと分かっていたはず
でも
正しいからといって
フィクションの世界観を信じてうまく行っているしあわせな人に真理を押しつける野暮はしなかったわけです。
フィクションを信じてしあわせになれる人もいますからね。
それに
ブッダの目的は苦しんでいる人に仏教を届けることですから
メインストリームである必要はなく、
サブストリームでも社会の受け皿として機能して生き残りさえすれば目的達成できます。
それどころか
メインストリームとウインウインになっておたがいが必要とする関係を作ろうとするなんて
すごい。
そのブッダのセンスのよさで
仏教は生き残り
2500年後の日本でも
資本主義の世界観で生きづらさを抱えてる人の受け皿になりえています。
と同時に
私達ガイドを食べさせてくれる観光資源でもありますけどね♪
ここからは日本の仏教の話に移りますが、
まー
日本の仏教って
特殊なんですよね。
ハッキリ言ってヘンです。
でもこれがなんと
実は
ブッダの仏教を超えるポテンシャルを秘めてるんです
!
仏教、日本へ
次の目的地は東寺ですが、
東寺へのアクセス
道中、仏教が日本に伝わった頃の話を・・・
ブッダの死後仏教は多様化します。
理由は、
ブッダの悟りに到達する方法が一般人にはやはり難しかったから。
誰にでもできる簡単なものだったなら多様化しなかったと思います。
ブッダは自分の悟りを、必要とする人が追体験できるように、たくさんの言葉を残しますが
ブッダ自身も「すべて伝えた」と言ったそうですが、
悟りという完璧な心の状態を不完全な言葉というもので完璧に説明するのは普通に考えて無理があったでしょう。
たくさんの解釈が生まれ、仏教は多様化します。
そんな多様化した仏教が
西暦538年
ブッダの時代から約千年後
朝鮮半島から日本に伝わります。
そして
聖徳太子(しょうとくたいし)が
593年に摂政(せっしょう)になって仏教中心の国造りを始めます。
国の主流の考えかたとして採用したわけです。
が
ちょっと思い出してください。
ブッダの仏教はサブストリームであることを前提としていたので
最初からこの時点でブッダの仏教とはちょっと違うものになっちゃってたのかもしれません。
でも聖徳太子の意図はわかります。
聖徳太子の政治のキャッチフレーズは
「和を以て貴しとなす」
翻訳すると
「平和がいちばん!」
仏教の戒律にはメインストリームの主義や世界観や宗教とケンカせず上手くやる知恵が盛り込まれていたので
「和を以て貴しとなす」の方針にとても合うものでしたからね。
それに
仏教は物理学者のさきがけだったブッダが伝えた当時の最先端科学みたいなものだったので
発展途上の日本にとっては
想像を超える魔法のような力を感じたのでしょう。
それにそれに
日本より先進国だった中国や朝鮮半島で仏教は盛んだったので
世界のスタンダードにのっかる意図も聖徳太子にはあったと思われます。
そして150年後
聖武天皇が
743年に奈良の大仏建立の詔を出し752年に完成します。

これ日本人なら学校で必ず習うやつですが
聖武天皇がなぜ大仏を建立したのか知らない人多いです。
私も最近知ったので偉そうなことは言えませんが、
聖武天皇の時代、大災害がいくつか起こったそうです。
これを受けて聖武天皇は、
「私のせいだ」となんと正直不動産みたいに正直に言いました。
なぜ聖武天皇のせいかというと、
この時代、中国でもそうですが、日本でも、その国を治めるものの徳が足りないと災害が起こると考えられていたから。
聖武天皇は災害は自分の徳が低いせいだと素直に認めたわけです。
で、聖武天皇が自分の徳を高めたいと考えたときに
とてもいいのが仏教でした。
多様化した仏教の解釈のひとつ、
悟りの道を追求するにしたがって徳が高くなると考えられていましたので、
仏教を信じ大きく貢献することで自分の徳を高めようとしたんですね。
災害からの復興の象徴となり、人々の祈りの対象であり心の拠り所にもなり、仏教へ貢献して自分の徳を高めることにもなる大仏建立の詔(天皇の命令)を出したんです。
聖武天皇の死後、たくさんの人の協力を得て大仏は完成し仏教中心の国造りを目指す日本の象徴のような存在になりました。
が
そんな聖武天皇や厩戸皇子の意図とはかけはなれ、その後、日本仏教は一度迷走します。
仏教中心の国造りを目指す日本で、仏教のお坊さんの地位は高く、尊敬もされる立場なので政治に口出すお坊さんが続出し政治が混乱しちゃいました。
そして西暦794年
桓武天皇は政治に口出す権力欲まみれのお坊さんを奈良に置き去りにして
日本の都を京都に移しました。
さらに桓武天皇は
真剣に仏教に取り組んでいる二人のまじめなお坊さんを京都で取り立てます。
空海と最澄です。

空海と最澄
空海と最澄はよく比べられて
『空海は天才で最澄は秀才』とか
『空海は天才で最澄は努力の人』とか
ひどいのになると
『空海は天才で最澄は凡才』
『空海は悟ったが最澄は悟れなかった』
みたいな
空海に比べて最澄は一段低いみたいな言われ方をします。
ガイドのかけだしの頃私は
「なんで?最澄だって絶対すごいやろ?最澄に失礼やんか」
と疑問に思い
反骨精神から
二人は全く同格として扱い
お客様にもそう説明していましたが
いろいろわかってきた今
お客様にわかりやすいストーリーを感じてもらうという観点からは、
最澄を一段低く評価したほうが便利だな
と思ってきてしまっています。
なので
ギリギリの妥協点から、
『空海は悟りに至り、悟りに至った者の立場でやれることをした人』
『最澄は悟りに至れなかったが、悟りに至れなかった者の立場でやれることをした人』
と少々長いですがこう表現しています。
この説明が後の展開に繋がります。
が
少し先のことになります。
まず空海を感じに東寺から行きましょう。
今ちょっとだけ今後の展開のさわりを言うなら、
私が感じている日本仏教のストーリーの中で、
悟ってないのかもしれないけど、日本仏教を面白くしたのは最澄です。
最澄もやっぱりすごかったです!
と
言ってたらお客様
ちょうど東寺に到着です。
東寺

※↑東寺の五重塔
世界で一番背の高い木造建築。55メートル。
ちなみに
面積で世界最大の木造建築は京都の東本願寺御影堂。
体積で世界最大の木造建築は奈良の東大寺大仏殿。
だったんですが!、
2025年の関西万博の大屋根リングが木造建築の面積と体積で世界一になっちゃいました。
大屋根リングの高さは20メートルなので東寺の五重塔だけはいまだ世界一です。
そして、万博終了後、どれくらい残るのかによって今後の世界一が変わって来ます。私のような記憶力があまり良くないガイドがせっかく覚えたことをややこしくしてくれた大屋根リングなのでした。
空海の悟り

東寺は1200年前に
嵯峨天皇が空海に任せたお寺。
空海の世界観が色濃く残っていて、
空海に思いを馳せるのにはいい場所です。
よかったらご一緒に思いを馳せませんか?

日本には四国八十八ヶ所巡りという習慣があります。現在でも老若男女問わず巡る人がいます。
これは空海の悟りを追体験するためのものです。
空海は若い頃四国の自然の中を歩き回って修行をしたそうです。

空海曰く、四国の室戸岬で谷が響き明星が光の玉となって空海の口から体内に入って来たそうです。
そして

宇宙とひとつになれたそうです。

空海の悟りは
『自然との一体化による悟り』 だと考えられます。
自然には煩悩がありませんので、自然を意識し、自然を感じ、自然と一体化して自然の一部になれたなら、なるほど煩悩も消えそうです。
脳内実験を繰り返して真理にたどりつき本能を書き換えて煩悩を消すブッダの悟りの行程とは少し違いますが、
煩悩を消すという最終目標の状態は同じです。
たとえるなら
ブッダは物理学者で
空海はフィールドワークを得意とする生物学者タイプの悟りなのかもと私は勝手に思っています。
即身成仏
空海はすべての人を悟りに導くことにこだわった人です。
空海はすべての人が即身成仏ができると言いました。
即身成仏 翻訳します。
空海はすべての人が、死後ではなく生きながらにしてその体のまま悟りに至ることができると言いました。
その、すべての人が悟りに至れるという点において、原始仏教(ブッダの仏教)には無理があるみたいなことも言っています。
なるほどそうかもです。
ブッダやアインシュタインのような脳を持っている人は滅多にいませんから。(でも、自然と一体化できる空海みたいな人も滅多にいない気がしますが、、、)
で
空海が選んだのが多様化した仏教の当時最先端の『密教』
密教
密教のコンセプトは、『人知を超える現象を祈りを通じて感得』 です。
ブッダは脳内実験を繰り返して真理に辿り着きましたが、すべての人が悟りに至るためにはここが最大の難しい所だと空海は考えたはず。私もそう思います、すべての人がブッダやアインシュタインのような脳を持っていません。天才しか無理です。
でで、
密教のコンセプト、翻訳します。
人がまだ知らないこの世界のしくみを、理屈ではなく、祈りによって感じて理解 くらいでしょうか。
学問のような理屈での理解ではなく、感じての理解です。ここがポイント。
あともうひとつ謎が。祈りって具体的にどうやるんでしょうか?
今の私の理解では、祈りは日本古来の言霊信仰(ことだましんこう)です。
言霊信仰
言霊信仰は仏教以前からの日本の土着信仰、神道(しんとう)に由来する信仰。
調べて見ると、空海は神道の家出身だそう。しっくり来ました。他にも空海は神道の手法を仏教に取り込んだ形跡がありますが、時短ツアーなので今回はいちばん重大だと思える言霊信仰だけに絞りましょう。
言霊信仰とは、
言葉には現実を引き寄せる力がある
という信仰です。
日本人は信じてきました。呪術にもつながっていきます。密教にオカルト的な印象があるのはこのためです。
オカルトっぽいですが、でも現代科学に照らし合わせてみても、案外合理的なんですよね~これが
ある科学の論文、
人は、どんなことでも、間違っていることでも、何回も何回も繰り返して言ったり言われたりしているとそれを信じ始めるそうです。実験で得られたその平均の回数がだいたい1200回だそうです。
どう思われます?
私のような素直じゃない人間には1200回は少なすぎる気がします。おそらく数万回レベルの繰り返しが必要だと思われます。
が、
私、今まで生きて来た経験から考えても、この論文しっくり来ます。
人は科学がこれだけ発展した現代でも、非合理的なものを信じたり、変な思い込みを持っていたりするものです。そんな人にたくさん出会いました。ハッキリ言えます。人は間違ったことでも本気で信じることができます。でもそれが悪いことだとは限りません。非合理的なものを信じて幸せになっている人もいます。幸せになれるなら、私は非合理的なことを信じることもありだと思います。この場合『思い込み』は幸せになるための武器だったりします。そしておそらく空海は、この、人の『思い込み』という武器を、密教のコンセプトにあてはめて、ブッダのような天才ではない普通の人を悟りに導くための切り札に使おうとしたと思われます。たとえば『私は自然と一体化できる』などと言霊を繰り返し祈ることで、自然と一体化するという現実を引き寄せ煩悩を消すというしくみです。
密教のコンセプト、ご理解いただけましたでしょうか?
空海以降、
日本仏教の悟りに到達する方法は、
ブッダの方法ではなく
空海の『自然を感じ自然と一体化する方法』が主流になった感があります。
この流れは、
時代や宗派を超えて現代まで流れています。
空海の影響力やっぱりすごい。素直に思います。
日本の仏教寺院には庭がありますが、
ほとんどの庭でざっくりと、
「自然を強く感じ、自然と一体化するための庭です」と説明しちゃって差支えないですからね。
↑勉強色が強いコーナーへのリンクです。ガイド試験勉強中の人や新人ガイドさん向け。勉強っぽいのがキライな人はこの枠無視して飛ばしちゃってください。飛ばして大丈夫なように作っています。
あと
空海が何をしたか説明するときに、外せないものが、
『曼荼羅(まんだら)』
曼荼羅
ここ東寺には曼荼羅(まんだら)というものがあります。

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)
金剛界では煩悩を破壊する行程、胎蔵界では生まれ変わる行程が表現されていると言われます。
空海はなんのために曼荼羅を作ったのかというと、
人々が少しでもわかりやすく悟りに近づけるように、空海が悟った世界観を表現しました。
また
東寺の講堂には立体曼荼羅というものがあります。
※東寺講堂立体曼荼羅(とうじこうどうりったいまんだら)ざっくりガイディング
上立体曼荼羅に興味あるお客様はリンクをどうぞ。飛ばしても大丈夫。
これも空海が悟った世界観をわかりやすく空間で説明したものです。
が、
アホの代表として言わせてもらいますが、『すみません。空海さん。私にはまだわかりにくいです、、、。マンダラって、、、。』
※曼荼羅についてまとめたページへのリンクです。ガイド試験勉強中、新人ガイドさん向け。勉強色が強いので嫌悪感がある人は飛ばしてください。飛ばしても大丈夫な構成になっています。
ブッダもそうですが、空海も人並み外れた能力の持ち主です。
その能力を使って悟りに至りました。
ふたりとも悟りに至る方法を伝えようとしました。
とくに空海は、曼荼羅の作成など、新しいわかりやすい方法ですべての人に悟りをもたらそうとはしてくれました。
くれたものの、
まだまだ一般人には悟りの理解は難しかったと考えられます。
そこで、
悟りにいたれなかった側の仏教界のビッグネーム、最澄の登場です。
私、アホの代表としてこの人の存在安心します。
いちばん好きかもしれません。
(といっても、最澄もじゅうぶんすごい人ですけどね。アホの私が親近感をもつのは失礼かも)
最澄
1200年前に最澄が小さな庵(いおり)を結んだことが始まりの『比叡山延暦寺』に向かいます。
比叡山延暦寺の境内は山全体。観光スポットもたくさんありすぎるくらいあります。
今回は時短がテーマなので
最澄に思いを馳せるのにはいちばんいいと私が勝手に思っている東塔(とうどう)エリアの根本中堂(こんぽんちゅうどう)と話を次につなげるのに便利な大講堂だけめぐります。
比叡山延暦寺根本中堂アクセス
道中、最澄の話をしましょう。

最澄はさきほどの東寺での主役、空海と同時代の人。
よく比べられます。
わかりやすいと思うので
私達バリアフリーツアー京都でも二人を比べます。

空海は悟ったので人の心を救うための方法の空海なりの答えを残しました。
が、
最澄は悟れなかったので、人の心を救うための最澄なりの答えが出せませんでした。
がが、

悟れなかったかったからこそ最澄は
作戦を残します。
苦しんでいるすべての人の心を救う可能性を未来に託す作戦です。

その作戦とは、『一隅を照らす』
一隅(いちぐう)を照らす
翻訳します。
「一隅」とは「かたすみ」
最澄は、苦しんでいるすべての人の心を救うことにこだわった人です。
が、悟れなかった。
でも
悟れなかったからこそ最澄は
すべての苦しんでいる人の心を救うための極めて現実的な作戦を残します。
「ブッダのような全世界を照らす人間を育てるのは難しい。
が、
かたすみを照らす人間を育てることは可能だ。
なら、片隅を照らせる人間をたくさん育てれば全世界を照らせるのではないか」
という仮説に基づく、
『一隅を照らす大作戦』です。
この言葉『一隅を照らす』は
比叡山延暦寺をはじめ最澄が開いた天台宗の寺院に今も掲げられています。
ゆーてるまに延暦寺に到着。
比叡山延暦寺
東堂駐車場から根本中堂に続く参道。

参道に沿って最澄のストーリーを伝える看板が並んでいます。
私達バリアフリーツアー京都が時短で伝える最澄のストーリーよりも、
よっぽど格調高く細かく詳しいです。興味と時間のある方はじっくり見られても楽しいと思います。
参道に沿って進むと、

『一隅を照らす作戦』
現在も遂行中です。
一隅を照らす作戦碑から左にパンすると、

立派な建物。大講堂です。
今回は後まわしにします。とりあえず根本中堂に向かいましょう。

根本中堂。見えてきました。
が
実は今工事中です。外観は見えません。
こんなときは
『雪舟 過去』発動

秋にはこんな感じ↓

御本尊にあいさつ。

根本中堂の本尊は薬師如来。
最澄手彫りだといわれます。
が
秘仏なので扉が占められて公開されていません。
でもその代わりに『御前立(おまえだち)』と呼ばれるレプリカが秘仏の前に。
脇を、日光、月光、両菩薩が固める薬師三尊スタイル。

※詳しい人はここ飛ばしちゃってください。基本情報です。
薬師如来は心や体の病気を治したい人の祈りの対象。如来とは『悟り』に到達した人の称号で仏教では最高位。右手のひらをこちらに向けているのは『大丈夫。』の意味。左手にはわかりやすく薬壺を持っていることが多い。合わせて『大丈夫。治りますよ。』の意味。
三尊では日光、月光菩薩が脇を固めることが多い。菩薩とは、『悟り』に到達することが確定している人なのだが『みんなと一緒じゃなきゃイヤだ』と誓ったので、みんなが悟りに到達するのを応援して待っているあえてまだ修行中の存在。日光は昼、月光は夜を象徴する。三尊の場合、日光が昼勤の看護師さん、月光が夜勤の看護師さんのようなものと考えるとわかりやすい。薬師如来はお医者さん、三人合わせて『大丈夫。昼も夜も24時間ケアしますよ。』の意味。
ここの薬師如来は参拝者と目線が合うように設計されています。
これには意味があります。
最澄と天台宗からの、
『如来は手の届かない高い所にいる存在ではなく対等な存在。みんな悟れますよ。』
というメッセージです。
私達バリアフリーツアー京都では、有名な仏像と出会うと『タイマン』を張りますが、
これは最澄のメッセージ『如来と私達は対等』をベースに観光を楽しむ手法です。
今まで「何やってんだコイツら。仏像とタイマンて」と思われたお客様もいるでしょうが、
実はこういうコンセプトでした。
今回もやりますよ。
今回は『アルカイックスマイルタイマン』になるでしょうね。
では
「比叡山延暦寺東塔根本中堂瑠璃光薬師如来御前立とタイマン!」


京都のガイドとしていろいろなお寺を案内させてもらっていると、どのお寺がどの建物、どの仏像を一番大切にしているかわかるようになるのですが、
ここ比叡山がいちばん大切にしている建物や仏像はわかりにくいです。
てゆーかわからないです。
これには理由があります。
最澄がひとつに決めなかったから。
例えば、悟った空海はひとつの答えを出しました。密教です。いちばん大切にしたのは大日如来。
が
最澄はひとつの答えを出しませんでした。
だから、ここ比叡山には、多様化した仏教のエッセンスがすべて残っています。
最澄は多様化した仏教を否定せず可能性のあるものをすべて後世に残そうとしました。一隅を照らす作戦とともに・・・。
最澄後の日本仏教。
最澄がここまで予想したのかはわかりません。
が
最澄以降の日本仏教のビッグネームは一人を除いてすべて最澄の比叡山から出ます。
その一人も比叡山出身者のひ孫弟子にあたるので比叡山の血は流れていると言っていいでしょう。
全員の名前だけ
ここで言っちゃいますね。
源信

法然

親鸞

栄西

道元

一遍

日蓮

全員、最澄が未来に託した答えを出した人たちです。
最澄の想定内だったのかないのかはわかりません。
が
これだけは言えます。
日本仏教を面白くしたのは悟れなかった最澄です。

最後に
後回しにした大講堂へ寄って比叡山をあとにしましょうか。

大講堂内での写真撮影は禁止。
でもお伝えしておきます。
大講堂の中では出会えますよ。
仏教オールスターズに。

以上
作戦を残し、『すべての人に到達可能な悟り』を未来に託した最澄でした。
その100年後、
始まります。
ゲームチェンジが。
ゲームチェンジ
ブッダや空海や最澄もすべての苦しんでいる人の心を救いたいと願った人です。
それは間違いないです。
が、
結局、悟ったブッダや空海、いわば天才の追体験ができるのは
それにかける時間があり、加えて才能のある一部の人だけに限られていました。
1100年前の日本は農業国。ほとんどの人が農業従事者で、毎日の労働に追われていました。現代よりもずっと効率の悪い農業技術。時間もお金もありません。
今からご紹介する三人は、
そんな日々の生活に追われている普通の日本人にも『到達可能な悟り』にこだわり、
天才の追体験というやり方を捨て、それに代わる似た効果を持つ方法を編み出した人たちです。
もはやブッダの仏教ではありません。
浄土教が日本独自の仏教と言われるのはこのためです。
でも浄土教は、『すべての人に到達可能』という点においては、
ブッダの仏教を超えます。
ゲームチェンジ始まります。
きっかけは源信から・・・。
源信【げんしん】
苦はゴー(905年)源信、『往生要集』を発表。
これが私がガイド試験に合格した時に知っていた源信についての情報のすべてです。
点の情報です。
これではなんのストーリーも浮かびませんので
点を線にしますね。
源信に思いを馳せるのにいい場所が京都にはあります。往生極楽院(おうじょうごくらくいん)に行きましょう。
往生極楽院(おうじょうごくらくいん)
往生極楽院へのアクセス
三千院の中に往生極楽院という塔頭(大きなお寺の中の小さなお寺)があります。

往生極楽院は源信とそのお姉さんがそのお母さんのあの世での冥福を祈るために建てた小さなお寺です。
そのお母さんは源信のストーリーを感じるために欠かせないキャラです。
源信とお母さん
源信は「すべての人に到達可能な悟り」にこだわった人です。
その方法を求めて最澄の開いた比叡山で修行していましたが、
まだ答えを見つけられずにいました。

しかし優秀で、えらいお坊さん十人に選ばれたりしていました。
それを聞いたお母さんのリアクションは、

「私はあなたが偉い人に褒められるためにお坊さんになることを認めたのではありません。あなたは『すべての人に到達可能な悟り』を探してるんでしょう。見つけましたか?日々を生きるのに追われている人を救うんでしょう。浮かれてないで修行に励みなさい」
でした。

お母さんのキャラのイメージが湧きましたでしょうか?
源信とお母さんのエピソードは他にもいろいろ残ってますが、時短が目的のツアーですので最小限にしておきます。興味ある人は調べてみたらもっと感情移入できるかもしれませんよ。

源信は修行に励みますが、答えを見つける前にお母さんが亡くなります。
お母さんは亡くなられる時、かなり苦しんだそうです。
源信は声をかけます。
「お母さん、いつか二人で見た浄土の絵を覚えていますか。お母さんは今からあそこへ行けるんですよ。何も恐れることはありません」
お母さんの脳内にいつか息子と二人で見た極楽浄土の世界観がひろがります。
往生極楽院まわり観光
源信とお母さんのストーリーの途中ですが、一旦中断して往生極楽院まわりを観光します。
お客様にも浄土のイメージを持ってもらうためです。
※仏教の世界観には浄土というものがあります。一切皆苦のこの世界と並行して存在する苦しみのないパラレルワールドです。(パラレルワールドの概念、二千年以上前からあったんですね、、、。)

往生極楽院まわりの庭『有清園(ゆうせいえん)』を初めて見た時、
私はまだ源信を知らず、何の知識もなく、浄土を見たこともないくせになぜか「浄土だ」と感じました。

たくさんの浄土式庭園を見た今でもそれは変わりません。
源信のお母さんがイメージした浄土。どんなだったのかもうわからないです。
が、

が、きっと
有清園のイメージ、近いんじゃないですかね~。息子と娘の祈りがカタチになった往生極楽院あるし。

ちなみに、
仏教の設定の中で浄土っていくつかあるんですけど、
薬師如来の浄土の色のイメージは
『瑠璃(あおみどり』
この画像の新緑から夏にかけての色がいちばん近いかもです。
源信がすべてを託した阿弥陀如来、

阿弥陀如来の浄土の色は七色だそうです。
イメージ難しいですよね、、、。
おっせっかいながら、
いろんな色の往生極楽院まわりの画像を七つ集めました。

これをお客様の脳内でミックスしたら七色になるかもです♪

私達バリアフリーツアー京都では有名な仏像と出会うとタイマンします。





さあ なんとなく阿弥陀如来の浄土のイメージを持っていただけましたでしょうか。
では源信とお母さんのストーリーの続きです。
源信とお母さん(続き)
(続き)
お母さんの脳内にいつか息子と二人で見た極楽浄土の世界観がひろがります。
「そうか。きれいなとこやったなあ。あそこに行くんかなあ。」
「そうですよ。お母さん」
お母さんは笑顔で逝けたそうです。
その後、源信は気づきます。
死の恐怖はブッダが定義した煩悩のひとつ。
お母さんは逝く間際にその煩悩を無くすことができた。
それを可能にしたのは、
二人で見た極楽浄土のイメージだった。
もしすべての人の心が極楽浄土のイメージを持つことができたなら
すべての人をこの煩悩から救えるんじゃないのか!
源信は『すべての人に極楽浄土のイメージを持ってもらう作戦』を開始。
源信が905年に書いた往生要集の正体はすべての人に極楽浄土のイメージを持ってもらうための本でした。
源信の作戦は成功。
1100年後の今でも日本人は心の中に本能レベルで浄土のイメージを持っています。
※浄土、来迎のイメージをお持ちでない方はよかったら動画をどうぞ。
7分です。
ここからちょっと私の個人的経験に基づく話、
私は介護の仕事もしています。いろんなおじいちゃんおばあちゃんに出会います。
ホントにいろいろです。介護が必要になっても明るく毎日すごしていらっしゃるかた。少し悲観的になっているかたもいらっしゃいます。
中には、「はよ、向こうにいきたいわ~」なんて悲しいことをおっしゃるかたもいらっしゃいます。
気づきましたか?
「向こうにいく」ってどこに行くんですかね。
明らかに浄土に往く(いく)イメージです。死への恐れはありません。
源信、1100年後のこの科学全盛の時代でも煩悩破壊しています。すごい。
今のおじいちゃんおばあちゃん世代くらいまでの日本人にはホントにしみついています。浄土のイメージ。
源信が想定した、
『浄土のイメージを持つことによる煩悩破壊のいちばんのターゲットの煩悩』は、
『死の恐怖』だろうと思います。
でも
一度浄土を信じてしまうといろんな副作用があります。
浄土があるということは先に亡くなったかたはみんなそこにいて『また会える』ということ。そうすると、「欲望のままに行動して、こんなことしてたら向こうであの人に顔向け出来ない」意識が発生し、生きている間の行動抑制につながります。これも煩悩破壊です。仏教の設定では煩悩の数は108。このうちどのくらいの煩悩をこの『向こうで顔向けできない』意識で破壊できるかどうかわかりませんが、結構イケるんじゃないですかね。
さらに
源信は往生要集で地獄の設定も細かく書いています。この狙いも生きている間の煩悩抑制です。生きている間の行動が悪いと地獄に落ちる設定により、『向こうで顔向けできない』意識にプラスして『地獄に落ちたらシャレにならん』意識によるさらなる煩悩破壊。
おじいちゃんおばあちゃん世代が私を含む現役世代よりも煩悩が少なくやさしくつつましやかに生きてるイメージは介護職に限らずみなさん持っていると思いますが、
『これってぜんぶ源信の影響?だとしたら源信の作戦すごすぎる!』って思ってしまいます。
ね。浄土を信じてしまえばとても合理的なんです。浄土教って。
さらにすごいと思うのはこの煩悩破壊、ブッダや空海のような天才でなくてもできます。
来ましたね。
『すべての人に到達可能な悟り』
でも
問題が・・・
信じたもん勝ちだということはわかりました。
すべては、
信じてしまえばです。
素直に浄土を信じられる人は現代人にもいるでしょう。その人は問題ないです。
問題は、
少なからずいるであろう私のような素直に浄土を信じられない人です。
どうしましょうか?
答えを教えてくれた人がいます。
法然です。
法然

『知恵第一の法然』
比叡山での法然のあだ名みたいなもんです。

翻訳します。
『知恵ということになれば、一番は法然だ。』

天才が集まる比叡山でこう呼ばれるのは相当な知恵者。
法然が開いた浄土宗の教えは、現代科学の目線で見ても効果が裏付けられるそのあだ名に名前負けしないものでした。
浄土宗
浄土を信じてしまえばブッダの悟りと似た効果が得られるのはさきほど説明した通りですが、
知恵第一の法然なら当然そこに気づいていたと思われます。
問題は、
本能レベルで信じられるかどうか。
法然は源信の浄土教に、本能レベルで信じてしまうテクニックを加えました。
信じ切る技
少しだけ脱線、すぐ戻ります。
私は物覚えの悪い子供でした。何を学習しても人より時間がかかりました。自分で自覚もしていましたし劣等感でした。
そんな時、ある人に言われたことがあります。
「お前は何もかもしようとするな。ひとつだけやっとけ。ひとつだけで勝て。」
賛否両論あるでしょうが、私はこの言葉に救われた気がしました。
脱線終わり。
法然はこれと同じことをしたと思われます。
信じたもん勝ちの浄土。
それをふまえた上で、
「お経を読む必要もない。厳しい修行をする必要もない。
ただひたすらに、ことあるごとに「南無阿弥陀仏」と唱える。
それだけで極楽往生できる。」
言い切りました。
「ただひたすらに」・・・、
源信の浄土教に言霊信仰を乗っけたな。
私は思います。
言霊信仰
『言葉には現実をひきよせる力がある』
これが日本古来の言霊信仰
日本人は信じてきました。
さらに現代科学も言霊信仰を裏付けます。
『どんなことでも、たとえ嘘の情報でも、平均1200回、何回も何回も言ったり言われたりしていると、人は本能レベルでその情報を信じ始める』そうです。
信じたもん勝ちの浄土教、
あったんですね。理屈抜きで信じちゃう方法。
ブッダや空海や最澄が夢みた、『誰にでも到達可能な悟り』
日本の源信が土台を作り、日本の法然が信じ切るテクニックを加えて現実にしました。
が、
ここまで読んでくださったお客様ならわかると思いますが、
法然は「ただ念仏を唱えるだけでいい」と言い切りましたが、
それまでのブッダの追体験をして悟りに至る方法とは全く違います。
当然、法然の仏教新勢力に対して今まで真面目にブッダの追体験を目指して努力してきた旧勢力は疑問を抱きます。
「変なこと言い出してるやつがいる!連れてこい!論破してやろうぜ!みんな!」
法然が呼び出されて、論戦が繰り広げられたのが今では観光地の勝林院です。
法然にちなんだ観光地は浄土宗のお寺ではないですが勝林院にします。
法然の一世一代の大勝負の場所です。
往生極楽院から歩いて行けますしね。
勝林院

勝林院(しょうりんいん)へのアクセス
勝林院での論争の内容は残っています。
法然はハンデを背負って戦ったようです。

私みたいに
私「浄土って信じたもん勝ち!
信じたら悟りに近い煩悩破壊できちゃうんです。
あとは信じ切れるか問題。
それは念仏をひたすら唱えることで解決できる!」
なんて野暮なことは言いません。
今、浄土と阿弥陀如来を信じている人が興ざめしないように、
「ひたすら念仏を唱えれば必ず極楽往生できる」という信じている人をたいせつにした言い方を貫きます。
既存のお経の内容から(お経は敵がたも否定できないので。)いかに阿弥陀如来は信じて大丈夫な存在かを裏付ける部分を引用して論戦を展開。

さらに、
真面目にお経を読みブッダの追体験をするために正攻法で努力して修行する人達を傷つけないようにも論戦を展開しました。
相手の理論をすべて認めたうえで
法然「あなたがたと違って私みたいな能力の低いものにはこの方法しかないんです」
みたいなこと言ってます。

野暮をせず、
相手を傷つけず、
というハンデを背負いながら互角以上に毅然と戦う法然。
知恵第一の法然の異名はやはり伊達じゃなかったようです。

伝説ですが、
最後に
「本当に念仏をひたすら唱えるだけでいいのか?!」
と問われ
「いい!」
と法然が再び言い切ったときに

勝林院の本尊の阿弥陀如来が光ったそうです。
まるで法然に軍配をあげるみたいに。

この阿弥陀如来、
『証拠の阿弥陀』と呼ばれます。
法然が正しい証拠だと。
大原問答のあと、
旧勢力から法然に弟子入りする者が何人も出たそうです。
法然の勝ちと言っていいと思います。
ところで
大原問答中の法然の自信満々の毅然とした態度。
私は
信じたもん勝ちの浄土教のしくみをわかっていたからだと思います。
じゃないと
法然はただの大ウソつきってことになりますよ。
私はやっぱり法然は
頭がずば抜けてよくて
それでいてやさしくて野暮じゃない人だと思います。
そうじゃないと、
弟子の親鸞があんなに全幅の信頼を寄せません。
次は親鸞です。
※余談です。しかも内容が野暮です。野暮に用はない人、素直に浄土を信じている人は飛ばしてください。
野暮ガイドのコラム
私、ガイドになる前もなったあともしばらく、「いちばんしょーもない宗教やな。浄土教。」と思ってました。
理由は「平成やで!令和やで!阿弥陀如来の浄土って!あると思えへんわ」
でした。
変わるきっかけは徳川家康が浄土宗を信じていたという事実を知った時でした。
「あれ、おかしい」と思いました。天下人になるような徳川家康のような武士の中の武士は合理的思考なはずです。たいていサイコパス。じゃないと戦に勝てないし、長続きする国を治める仕組みも作れない。なのになぜいちばんファンタジーな浄土宗を信じたのか?
「何かある!洗いなおせ!」私の中のボスの刑事(デカ)が指示。
私は洗いなおしました。長くなるので結果だけお伝えします。
結果、
今では私は『浄土の存在』を無意識レベルで信じ切ってしまえば、そのあとに起こることの合理性は信じています。
おそらく家康も、源信も法然も(親鸞は微妙)、「たとえ浄土があってもなくても、信じてしまえば結果同じじゃん。煩悩破壊できるじゃん。」と気づいていたと思いますよ。ただそれをビッグネームたちが言ってしまうと野暮すぎるし一般信者の煩悩破壊の邪魔になるかもしれないので言わなかったと私は思います。
とゆーことは、
ガイドの私が、たとえ正直が売りとはいえ、たとえ私と似た人に浄土系の効果のすごさを伝えるためとはいえ、たとえビッグネームたちとは比べ物にならないくらい影響力のない立場だとはいえ、ここでこんなことを言うのは結構な野暮ですね、、、。
以上、野暮ガイドのコラムでした。
親鸞ゆかりの六角堂へ
親鸞にちなんだスポットは六角堂を選びました。
六角堂アクセス
道中、親鸞の話を。
親鸞の浄土真宗は浄土系の最終形態。

悟りへの到達速度、最速最強です。

法然の浄土宗では、何回も何回も繰り返し念仏を唱えることによる本能の説得の時間が必要でした。
が、
親鸞の悟りはその時間も必要ありません。
一瞬です。

親鸞いわく、
「信じると決めたその瞬間からあなたは救われる」
です。

これ、急に言われたらめちゃくちゃ怪しいですよね。
でも、親鸞という人が分かれば説得力出てきます。
そのために今回選んだのが六角堂。
六角堂

六角堂は
小さいお寺ですが
京都中心部の観光地の中でいちばん早くしだれ桜が咲くスポット。
各ガイド、桜シーズンの始まりの時期の目安にしていたりします。
個人的な時期としてのおススメもやっぱり桜の時期です。京都全体の桜のピークよりも一週間以上早いのでまだ混雑のピーク前だったりするのでゆっくり桜を見られることが多いですしね。
あと、
聖徳太子ゆかりだったり、小野妹子ゆかりだったり、今回の親鸞ゆかりだったりするので、
人物つながりでツアーを構成するのにも便利ですよ♪
親鸞は比叡山で落ちこぼれでした。
これ、初めてのタイプです。
ブッダ、空海、最澄、源信、法然、全員仏教優等生でしたからね。
さらに、

さらに
仏教では強い欲望(煩悩)が不幸をもたらす原因とされますが、
親鸞はむちゃくちゃ欲望強かったそうです。特に女性に対して。

そんな自分に嫌気がさして比叡山を飛び出し精神もズタボロでこもって修行したのがここ六角堂。

でもここ六角堂が親鸞のターニングポイントになるんです。
伝説ですが、
こもって95日目親鸞は夢を見ます。
聖徳太子の化身の救世観音が現れて(六角堂は聖徳太子ゆかりの寺)
女性への欲望が捨てられない親鸞に対して
「そのままでいい。私が妻となってお前を支えてあげる。」
言ってくれたそうです。
「まー都合のいい夢だこと」と私なんかは思いますが、
「そのままでいい」と言われたことが親鸞の才能を開花させます。
親鸞は人類史上最高くらいの『褒められて伸びるタイプ』だったのです。
親鸞

推測ですが
それまで親鸞は比叡山でまわりにも自分にも『欲望を捨てきれない自分』を否定され続けてきたんだと思います。
が
観音に「そのままでいいんだ」と言われて一瞬で才能開花に至ります。
「俺はこの夢を信じる。決めた。このままで行こう!」と。

ここであの怪しい言葉にもどりますね。
親鸞が言った「信じると決めた瞬間からあなたはもう救われる」
親鸞は信じると決めたその瞬間から自分が救われたんです。
だからこその言葉だったんですね。
説得力持ちましたでしょうか?

ここからの親鸞は猪突猛進。
すぐ法然に会いにいきます。ホントにすぐ。
なぜ法然を選んだのかは推測するに、
このままで行くと決めた『落ちこぼれのエッチなそのままの親鸞』を受け止めてくれる仏教は、
「お経も読まなくていい、厳しい修行も戒律も知らなくていい、ただ阿弥陀如来を信じて念仏を唱えるだけでいい」
とうたう法然の浄土宗しかないからだと私は思います。おそらくここにかけるしかない心境。
法然の元にまた100日通いました。
なぜ100日通ったのかというと、定説では、100日間法然といろいろな問答をして、納得して心から法然を生涯の師と仰ぐと決めるのに、法然を信じると決めるのに必要だった時間だとありますが、私もそう思います。
こうと決めたら一瞬で信じ切る親鸞ですが、決めるまでには時間がかかるようです。比叡山では20年間悩んでますしね。
「こんなエッチな私でも救われるんでしょうか」
「ああ。必ず救われる。」
「なぜですか!?そんなことを言ってくれるのはあなただけだ。根拠は?」
「このお経の136ページだ!」
みたいな議論が展開していったと推測できます。
この100日間は見方を変えると理論武装完璧な知恵第一の法然に自分を肯定してもらう100日間だったということもできます。
夢の聖徳太子に続いて法然にも「そのままでいい」と肯定された親鸞。うれしかったでしょうね。

ただ、この100日間、法然のほうも親鸞を品定めする100日間だったはずです。
ただのエッチな落ちこぼれではないと法然もわかったはず。
親鸞は法然を超え、浄土系仏教をさらに進化させる才能の持ち主だったのです。
肯定されると伸びる親鸞。
「信じると決める」ことは親鸞にぴったりだったんです。
親鸞は『こうと決めたらもう迷わない』という特殊能力の持ち主でした。
『こうと決めたらもう迷わない』能力
お客様のまわりにもいませんでしょうか?
一度こうと決めたらもう迷わず猪突猛進、全くブレずに何かに一心不乱に打ち込める人。
親鸞はそんなタイプの人だったようです。
一度こうと決めてもあれこれ考えて迷ってしまって結局時間がかかるタイプの私はこのタイプの人が時々うらやましくなります。
「あの能力ほしい~」と何度思ったことか。
これきっと才能なんです。
一瞬で信じ切れる才能。生まれつき『信じ切りの技』を使える才能です。
私の結論。
一瞬での信じ切りをうたう親鸞の浄土真宗は才能要ります。
そうなればブッダの仏教や、空海の密教と同じ。
なので、
『誰にでも到達できる悟り』という点においては法然の浄土宗のほうが上と私には思えます。
ただ
一瞬での信じ切りができる人は実際たくさんいます。
そんな人は親鸞の浄土真宗が合ってるでしょうね。
一瞬で『浄土を信じることの合理性』を手に入れることができますよ♪
最速最強です。
この信じ切れる能力を私達バリアフリーツアー京都では『信じ切りの技』と呼びます。
『信じ切りの技』
この一瞬での『信じ切りの技』
現代のスポーツの世界でも良く使われています。
たとえば
私自身は世界一を決める舞台に立ったことはありませんが、
スポーツドキュメンタリーなどでよく聞くパターンが、
世界一を決める一戦、
ギリギリの戦い、
こんなとき「絶対勝つ」と強く信じたほうが勝つそうです。
でも冷静に考えると、
相手も死ぬほど努力を積み重ねてここまで来ています。
勝つ確率が百パーセントなんてありえません。
でもこんなギリギリの勝負では「絶対勝つ」と最後まで信じ切ったほうが勝つそう。
『信じ切りの技』はスポーツの世界でも有効。
スポーツの世界で有効なら戦(いくさ)でも有効なはず。
戦国の覇者、織田信長を戦で最も苦しめたのは、
他の戦国大名ではなく、
武装した本願寺(浄土真宗の総本山)だと言われます。
『信じ切りの技』を使える武装集団は本職の武士を脅かすほどだったんじゃないかなと推測します。
説得をするとき、
どんなに論理的、合理的に、議論を積み重ねても。一心不乱に思い込んでいる人は結局説得できないことが多いです。
思い込んじゃうってすごいパワーを持っています。
この『信じ切りの技』を取り込んだのが浄土真宗だと私は理解しています。
あと、
もうひとつ『信じ切りの技』を可能にする方法が。
親鸞が言ったとされる、
「俺は法然を信じる。法然を信じて地獄に落ちるなら俺はかまわない。」
という言葉。
私にはしっくりきます。
親鸞は理屈ではなく『人間 法然』を信じたんですね。
子供が親を無条件で信じるように、人には「この人がそう言うなら」というだけで、一瞬で理屈抜きで信じられる時があります。
理屈こねの疑り深い私ですが、この『信頼している人がそういうならタイプ』の信じ切りならできそうな気がします。
さてここで、
ここまでの『仏教知識時短破壊ツアー』を一旦振り返ります。
ブッダの悟り。空海の悟り。最澄の作戦。
そして
源信の浄土教がなぜ合理的なのか。そして本能レベルで浄土を信じるために、鎌倉シックスのうちの二人、法然、親鸞がどんなエッセンスを加えて宗派を立ち上げたのか、
ブッダから親鸞までの流れをご理解いただけましたでしょうか?
時短を最優先するならここまでのストーリーでこのツアー終了してもいいと思ってます。
が
学生時代に普通に勉強した日本人なら誰でも名前くらいなら知ってる仏教有名人のうち
(ブッダ、最澄、空海、源信、法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮)
あと四人残っています。
これら、各、学生時代から名前だけは知っているという点の情報をつないで線にしてストーリーを感じてもらうまでを私は優先事項にしたいと思っています。
なので
あと四人つなげますね。
源信がベースを作り、法然親鸞が技を加えて進化させたそんな浄土系ですが、
鎌倉仏教シックスの中にあと一人浄土系がいます。
時宗を立ち上げた一遍です。
一遍
一遍は、
もともと法然の『浄土宗』に属して修行していたお坊さんです。
『浄土宗』では、
信じてしまいたいお題目を何回も繰り返し唱え、『繰り返しの技』による信じ切りを目指します。
『誰にでも到達できる悟り』という点においては浄土宗がいちばんだと言いましたが、
一遍の『時宗』にも同じ『繰り返しの技』による信じ切りの効果あります。
が、
時宗ではそれだけではありません。
踊りながら歌うようにお題目を唱えます。
人は『踊り念仏』と呼びました。
踊り念仏
みんなで念仏を唱えているとある日、
弟子の一人が突然踊りながら歌うように念仏を唱え始めたそうです。
試しにみんなでやってみたところ、
「なにこれたのしい~☆」「気持ちいい~☆」
となったそうです。
それ以来『時宗』では、
この『踊りながら歌うように念仏を唱える』ことを前面に出し始めます。
現代人でもライブ好きなかたなどは思い当たるんじゃないですかね。
みんなで踊り歌うことによる『一体感』『高揚感』『グルーブ感』みたいなものを
『時宗』では『悟り』とみたてている印象があります。
たしかにその瞬間は、なにもかも忘れて、いやなことも忘れて、楽しんで、ブッダが定義した苦がなくなっている状態と言えるのかもしれません。
現代でも日本各地で見られる盆踊りのルーツは『踊り念仏』だそうですよ。
誰にもあるんじゃないですかね。
地元や知らない町で盆踊りに参加してなんとも言えない『幸福感』に包まれた夏の夜の記憶が。
これ、もし一遍の作戦なんだとしたら、『盆踊りで先祖も巻き込んで日本を幸福感で包む作戦』なんだとしたら
一遍も、最澄、源信と張るくらい結構な策士だと思いませんか。
さて
源信がベースを作り、法然親鸞が技を加えて進化させたそんな浄土系ですが、
ブッダの仏教とは違うものになってきています。
当然否定する人も登場します。
鎌倉シックス三人目。日蓮(にちれん)です。
日蓮(にちれん)
日蓮は怒っていました。
めちゃめちゃ怒っていました。
特に浄土系に。
日蓮いわく、
「ちょっと待ってよ!浄土系!仏教ってそんなんちゃうやん!」
はい!私も同感です。
ここまでこのツアーについてきてくれたお客様も日蓮の主張わかると思います。
だってブッダの仏教ともう全然違いますもんね。
でも、すべての人に到達可能な悟りを探し求めた源信、法然、親鸞の気持ちもわかりますよね。
ですが
今回の主役は日蓮なので、日蓮のほうに感情移入してみますね。
さらに日蓮いわく、
「やっぱ、お経大事やよ!」
で、日蓮が選んだのが最澄の比叡山で学んだ『法華経』
日蓮宗の念仏は『南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)』
翻訳すると、『私は法華経を信じる』
そして日蓮宗の本尊は、釈迦如来でも薬師如来でも大日如来でも阿弥陀如来でもなく、
『大曼荼羅』!↓

なんと文字の曼荼羅。
空海が悟った世界観を絵で表現した東寺の曼荼羅では、大日如来が世界の真ん中でしたが、
日蓮が悟った世界観を文字で表現するこの曼荼羅では『南無妙法蓮華経』のお題目が真ん中。
『やっぱお経大事だってば!』という日蓮のメッセージです。
日蓮はお経をいちばん大切にしましたが、
集中して瞑想することをいちばんたいせつにした宗派が二つ出てきます。
まずは鎌倉シックス四人目
道元(どうげん)
道元(どうげん)
ブッダは集中して瞑想することによりこの世界の真理を発見し、また集中して瞑想することにより煩悩を破壊しました。
ブッダの武器はずば抜けた集中力。
ブッダに近づくには
『やっぱ集中して瞑想でしょ!』
道元の答えでした。
道元はブッダに近づくことを意識しました。
何も考えずただ座る。これがブッダの姿。まず見た目から入るみたいなことも言ってます。
人には元々仏性(ぶっしょう)があり、そしてただひたすら座ること『只管打坐(しかんたざ)』を実行して無になれたとき『仏性(ぶっしょう)』(あなたの中のブッダ)が現れるというのが道元の悟り。
道元は政治権力に取り入ることを嫌いました。
だから朝廷の本拠地京都中心部に道元ゆかりの地は少ないです。
誕生寺。道元が生まれた地に立つお寺。
比叡山。建仁寺。若き道元が修行した場所。
宇治の興聖寺。道元が開いた最古のお寺
高辻通り西洞院西入。道元が亡くなった場所。
興聖寺
栄西
道元はただひたすら座禅することを選びましたが、
栄西の臨済宗も座禅がメイン。でも座禅もしますが他にもいろいろするのが特徴です。
とんち問答を繰り返して境地に近づく手法です。
あと、祈祷もします。道元と違って、政治権力と上手くやることをよしとしていましたので、権力が求める祈祷もしました。
これを否定する人もいますが、元々のブッダの仏教にも、生き残るために、サブストリームを自覚しながら世の中のメインストリームと上手くやる知恵が盛り込まれていましたし、私はありだと思いますけどね。生き残らないと仏教を必要としている人の役にたてないですもんね。
ブッダの悟り再び
仏教が多様化したのはブッダの悟りが難しかったから。
ブッダの悟りは三段階。
2500年前、
インドのブッダは
『集中して瞑想することによりこの世界の本当のしくみを理解』しました。(第一段階)
この世界の本当のしくみが分かれば、苦しみの本当の原因がわかります。それを『煩悩』と名付けます。
『煩悩の特定』(第二段階)
そして、
また『集中して瞑想することによりすべての煩悩を破壊』しました。(第三段階)
私のような凡人にとって
ブッダの悟りでいちばん難しい部分はこの、
『集中して瞑想することによりこの世界の本当のしくみを理解』
する第一段階の行程ですが
ブッダの時代から2500年後の現代
最澄、空海の時代から1200年
源信の時代から1100年
鎌倉シックスの時代から800年
人を取り巻く環境は大きく変わりました
特にここ100年
科学の進歩はものすごいです
アインシュタインは『これからの未来、仏教だけが科学と共存できる』と言いましたが
そんな時代がもう来ていると私は思っています。
ブッダのように集中して瞑想することにより脳内実験を繰り返して真理にたどり着かなくても科学が真理を教えてくれています。考えれば『煩悩』も特定できます。
ブッダの悟りの第一段階と第二段階は科学で解決できるということです。
残ったのは』第三段階』集中して瞑想することによる煩悩破壊です。
これは今日ご紹介した仏教オールスターズの中の法然が残したテクニックを使えば普通の人で克服可能です。
私のような凡人でも実は、
この手法で
ブッダのようにすべてではないですが煩悩をいくつか破壊しています。
このツアーの最後に、
ここまでわざわざ触れずに残しておいたブッダの発見した真理『諸法無我』をご紹介します。
そしてよかったら、
『不幸に導く私』があなたの中にあるなら破壊してみませんか
諸法無我(take1)
私が新人のころ、
担当させてもらった修学旅行生に
「諸法無我ってなに?」
て聞かれたことがあります。私は
「私なんてない」と答えました。
修学旅行生さんの頭の上にはマンガのように『?』クエスチョンマーク。ひとりが、
「どういうこと?私ここにいるんですけど~」
ノリよく他も
「私もここにいます♪」
「はい!私も♪」
「はい!私もいまーす♪」
私は、
「はい、みなさんそろってますね。点呼終了。」
と、しょーもない返しでやり過ごしましたが
逃げただけです。諸法無我、分かってなかったです。私。
あのときの修学旅行生のみなさん。アホガイドが担当したおかげで、せっかくのブッダの大技『諸法無我』を知るチャンスを逃してしまいましたね。マジでごめんなさい・
このウェブサイト『逆襲のガイド』はガイドが過去の後悔を晴らす場所。
今さら感満載ですが、
「今さら!?」
「私達もう大人になっちゃってるんですけどー」
「えーと、なんでしたっけ?」
「誰?」
とあの時の修学旅行生さんの想像の声が聞こえて来ますが、
私ずっと後悔してました。皆さんのおかげで『諸法無我』私なりに理解しました。
今なら説明できます。
ぜひリベンジさせてください。
諸法無我(take2)
『諸法無我』
直訳します。
『私なんてない』
わかりにくいです。意訳します。
『ヒトの本能が感じさせる私の領域なんて実はない。そんなもんはフィクションだ。』
です。
すべての本能にはいい面と悪い面があります。
平安時代風にいえばおまじないになったりのろいになったりします。
『私の領域を感じる本能』も生き残るのに有効な面があるからあります。
逆に言えば、この本能を持つものが生き残って遺伝子を伝えてきました。
が、
この本能があるせいで不幸に導かれることがあります。
そうなったらこの本能はもう呪いです。
仏教で言えば『煩悩』。
私の領域という煩悩
ヒトは単体では弱い生き物。
他の動物と一対一でタイマンしたらたいてい負けます。
だから人は、家族、集落、村、国と、チームになり役割分担、支えあい、力を合わせて命をおびやかすものと戦って生き延びてきました。
エヴァンゲリオンでも、
使徒はいつもたった一体、それに対してヒトはチームで力を合わせて戦いますが、このことを庵野さんが表現していると言われています。
その複数のヒトが一丸となることを可能にしたのが、
ヒトが持つ、『私という領域を大きく出来る本能』です。
家族や仲間を自分の一部のように感じ、命さえかけて守れる本能です。
この本能は必要です。必要だから現代人も持っていますし、またこの本能を持つ種が生き残ってきました。ヒトにとってのおまじないみたいなものです。もしかしたらヒトはこの本能に『愛』という名前をつけたのかもしれません。
が、
すべてのおまじないは呪いになる可能性を持っています。
たとえば、
親が子供を自分の一部のように感じ命をかけて守っているうちはおまじないですが、
親が子供を自分の所有物のように感じ、何かと束縛し、自由を奪い、言うことを聞かないとイライラして虐待するみたいな状態になって、
子供が「なんで私こんな家に生まれたの!?いなくなっちゃいたい!」みたいに感じだしたら、
命をつなぐための本能なのに本末転倒、
親にとっても子供にとってももうこれは呪いです。
呪いは仏教では『煩悩』と呼ばれ、そぎ落とす対象です。
さて、
ここまでを一旦整理。
ブッダの悟りの第一段階と第二段階、しくみの理解と煩悩の特定まできました。
じゃあ第三段階に移ります。
※ちなみに
ブッダの『私の領域』は
無限大
であり、
ゼロ(無)。
碇シンジと初号機のシンクロ率がゼロなのに初号機が動いた時に赤木リツコが言ったように、
「はっ!ゼロは無限大に最も近い値」
だからです。
ブッダは、自分が亡くなっても、家族がなくなっても、どこの馬のホネかわからん人がなくなっても、リアクション同じです。
『私の領域』が無限大でゼロだからです。
ブッダの伝説に腹をすかせた動物に自分の体を差し出したというのがありますが、普通に考えたら不可解な行動ですが、
『諸法無我』で『私の領域』無限大でゼロだからです。
よく悟りを説明するのに『無』という言葉が使われますが、聞いている人のイメージをなんだかぼんやりさせますが、
諸法無我の『私の領域』と照らし合わせて、
無限大でありゼロだと理解すればわかりやすいかと・・・
思ってこの『※ちなみに』の枠に書きましたが逆にわかりにくくなったらすみません。
煩悩(呪い)破壊
さあ第三段階
ここは選択肢があります。
才能ある人は、
ブッダや禅宗のように集中して瞑想して脳の本能のスイッチを入れたり切ったりできるヒトはそれありだと思います。
空海のように自然と一体化できる人はそれあり、
親鸞のように一瞬での本能レベルの『信じ切りの技』が使える人はそれあり、
だと思いますが、
誰にでも可能な技は法然の『繰り返しの技』系だと思います。
法然のようにただひたすらことあるごとに念仏のように本能を説得する言葉を唱えます。
くりかえしの技
『人はどんなことでも、たとえ嘘の情報でも何回も何回も繰り返し言ったり聞かされたりしていると本能レベルでそれを信じ始める。平均の回数は1200回』という先ほどご紹介した論文もありますが
回数や時間で私が目安にしているのは、
『一万時間説』と『三万回説』。
一万時間説
人が仕事で一人前になるのにかかる時間が一万時間だという説。
人の才能によって早い遅いはあるでしょうが、私は自分の経験上この説だいたい合っていると思っています。
わたしの人生で一万時間を超えた仕事は三つありますが、振り返るとどれも一万時間あたりでひとつ上のステージに上がったと感じています。具体的には、考えなくても当たり前に体が反応して動く感じです。こうなるとスピードも速くなりますし。思考のチャンネルに余裕ができるので、その余裕分、注意を他のことに使えるので、大げさにいうと2Dが3Dになったような情報処理ができるようになります。
本能レベルで何かが染み込む時間だと考えられるので、仏教においての本能をそぎ落としたり書き換える時間の目安になると私は考えます。
私のようなアホでちょうど一万時間くらいだった印象なので、早い人はもっと早い可能性あります。
三万回説
スポーツの世界で言われている説だそうです。
たとえば、意識して、今までしみついたフォーム改造をするとき、最初は意識しないと今までのフォームが反射的に出てしまうところを、何回も何回も意識して新しいフォームを練習していくと、平均三万回くらいで新しいフォームが何も考えなくてもでてくるようになるようです。
私はこの経験はないですが、ある、世界を何回か取ったテニスプレーヤーが、ドキュメンタリー番組で、「フォーム改造するときは三万回練習。」とハッキリ言っていたのである程度正しいのだろうなと思っています。ただ、
世界を取るような選手なので、集中力や記憶力はかなりいいと考えられるので、私のような凡人がやる場合は回数もっとかかるだろうとは思います。
反射的に出るということは、本能レベルでしみついた動きだと考えられるのでこの三万回も煩悩を書き換える回数の目安になると思います。
今回の煩悩の場合、
ブッダの言葉『諸法無我』を使ってそのままイケるしカッコいいかなと思いますが、
私なんかの場合はもっとわかりやすく
「子供は私の所有物ではない」などと、
法然の念仏のように、
一万時間説と三万回説を目安にして
何回も何回も唱えたら
本能を説得できるはずです。
私の他の煩悩をそぎ落とした経験でいえば、
ことあるごとに唱えて数年かかりました、、、。
大丈夫。きっとみなさんはもっと早いですよ♪
さあ
ブッダの悟りは部分的にはですけど現代では誰にでも到達可能だ
と
お伝えして
長くなりすぎた今回のツアーを閉めたいと思います。
部分的という条件を付けたのは
、
仏教の世界観では煩悩の数は108だと言われています。で、
煩悩を書き換えるのに一万時間説を採用してひとつ一万時間かかるとして計算したら、
すべての煩悩を書き換えるのに108万時間かかります。
人生100年だと考えても時間にしたら、87万6000時間、寝ないで生まれた直後からずっと書き換え作業をしたとしてもすべてを書き換えるのには時間足りないです。残念ながら。
でも、このかかる時間を縮めるのが、ブッダの特徴、集中力なんでしょうね。きっと。
私自身は、煩悩、ホントにヤバいやつをいくつか消せたらそれでいいじゃんと考えていますが、
もしブッダになりたい人いましたら、応援します。鍛えるべきは集中力です。『集中して瞑想』に特化した禅宗で修行するのもいいかと思いますが、もっとてっとり早く、スポーツでも勉強でもゲームでも集中力は鍛えられますよ。一番いいのは数学だと専門家から聞いたこともあります。
と、期待を持たせておいてまた野暮なことを言いますが、私はすべての遺伝情報が状況が変われば煩悩になると思っています。人の遺伝子の数は最新の研究では二万個。妥協して、すべての遺伝子が煩悩にはならないとしても少なく見積もっても数千、煩悩はあるでしょうね。108よりずっと多いです。これだけ多いとなかなか一人の人生ではブッダの完璧な悟りは難しいのかもしれません。仏教の世界観『輪廻』のように何回も生まれ変わって煩悩を消すしかないのかもしれませんね。逆に、だから『輪廻』の概念必要だっだのかなとチラっと思ったりします。
野暮ガイドですみません。
また長くなりましたがホントにしめますね。
私、小さい時から、歴史に興味なかったこともあり、
何も知らないくせにずっと
「仏教つまんね」
と思ってました
が、
仏教にはいろんな技や作戦や知恵がつまっていて、
また、
いろんな人のストーリーがそこにはある
と
わかってきた今では、
結構ときめくようになっています。
このときめきがこのツアーを見てくれた誰かに伝わり観光を楽しむのに役に立てばいいなと思っています。
では
あなたの観光がいいものになりますように
